2007年 12月 01日
竹迫城跡見学会
|
北部九州中近世城郭研究会と合志市教育委員会主催の竹迫(たかば)城跡見学会が1日(土)13時から行われたので、一般参加しました。
配布資料から
中世の城はいわゆる山城で石垣と天守閣からなる近世の城とは異なる。自然の地形を活かして堀や土塁により築かれた。平時、城主は麓の館にいて、いざ戦いとなった際の詰め城で主郭にはやぐらや兵舎がある程度と考えられている。しかし高い山がなく地形に制約される地域や戦国時代末期の城では館が築かれ、政治が行われていたようである。
竹迫城の主郭は標高92m、東西38m・南北48mを測る。周辺は深い谷に囲まれ、幅約20~30m、深さ8mの北側に残る大きな堀からも堅固な城であることがわかる。東側は埋まっているが以前、3重の堀が巡っていたといわれ、東側が丘と切り離されていた。
城名については正式に竹迫城とここの城を指す1次史料はない。南北朝時代の「合志城」は住吉付近を指すようであり、戦国末期には竹迫城を「合志之城」とみえる。2次史料である「肥後国誌」では「竹迫城」・「蛇ノ尾城」とあり、他に「合志竹迫城」・「上之荘城」・「穴の城」などが挙げられる。竹迫城の規模や総構え(外堀)との関係・歴史的背景から合志氏が築かれた可能性が高いようでらる。竹迫氏の城が合志氏によって改修されたのか、時期によって使用された城が異なったのかまた城の名称が重複するのかなど謎の多い城である。
島原の乱の翌年、寛永15(1638)年幕府より破城の命令が下り、細川藩によって堀などを埋めたとあることから竹迫城が肥後を代表する城郭の1つであったともいえる。
大型バスで竹迫城跡公園 ⇒ 木瀬 ⇒ 田久保 ⇒ 寺崎 ⇒ 西光寺 ⇒ 竹迫城と6km余を回りましたが、我が住む地域にこんな大きな史跡があることを知り驚きでした。
竹迫城跡の頂上にある合志城阯の碑 ↓
竹迫城見学の一行 ↓
木瀬(陣山)遺跡の碑 ↓
土塁の上から竹迫城を望む ↓
合志氏先祖の塔 ↓
寺崎の土塁と堀 ↓
土塁と堀の説明を受ける一行 ↓
配布資料から
中世の城はいわゆる山城で石垣と天守閣からなる近世の城とは異なる。自然の地形を活かして堀や土塁により築かれた。平時、城主は麓の館にいて、いざ戦いとなった際の詰め城で主郭にはやぐらや兵舎がある程度と考えられている。しかし高い山がなく地形に制約される地域や戦国時代末期の城では館が築かれ、政治が行われていたようである。
竹迫城の主郭は標高92m、東西38m・南北48mを測る。周辺は深い谷に囲まれ、幅約20~30m、深さ8mの北側に残る大きな堀からも堅固な城であることがわかる。東側は埋まっているが以前、3重の堀が巡っていたといわれ、東側が丘と切り離されていた。
城名については正式に竹迫城とここの城を指す1次史料はない。南北朝時代の「合志城」は住吉付近を指すようであり、戦国末期には竹迫城を「合志之城」とみえる。2次史料である「肥後国誌」では「竹迫城」・「蛇ノ尾城」とあり、他に「合志竹迫城」・「上之荘城」・「穴の城」などが挙げられる。竹迫城の規模や総構え(外堀)との関係・歴史的背景から合志氏が築かれた可能性が高いようでらる。竹迫氏の城が合志氏によって改修されたのか、時期によって使用された城が異なったのかまた城の名称が重複するのかなど謎の多い城である。
島原の乱の翌年、寛永15(1638)年幕府より破城の命令が下り、細川藩によって堀などを埋めたとあることから竹迫城が肥後を代表する城郭の1つであったともいえる。
大型バスで竹迫城跡公園 ⇒ 木瀬 ⇒ 田久保 ⇒ 寺崎 ⇒ 西光寺 ⇒ 竹迫城と6km余を回りましたが、我が住む地域にこんな大きな史跡があることを知り驚きでした。
竹迫城跡の頂上にある合志城阯の碑 ↓
竹迫城見学の一行 ↓
木瀬(陣山)遺跡の碑 ↓
土塁の上から竹迫城を望む ↓
合志氏先祖の塔 ↓
寺崎の土塁と堀 ↓
土塁と堀の説明を受ける一行 ↓
by nakathan
| 2007-12-01 20:10
| 自然
|
Comments(0)